「小学校1年か2年の時、登校途中の細道の真ん中にデンッ!と大きなのがいたことがあって、すぐ猛ダッシュで家に帰って、その日学校は休みました。
だから、それよりも前から嫌いだったはずだし、何か決定的な出来事があったんじゃないかと思うんですけど、思い出せる出来事がないんです。
あまりのショックで記憶から消しているのかもしれません。」
「結局何が原因かわかっていないのですが、影響は大きく、人生にも関係してきています。高校生で進路を選ぶ時、美術系か農業系に進むか考えていたんですが、農業系だとどうしても出くわしてしまうのでそっちは選べなかったという…」
「仕事などで、この時のようにどうしようもない状況はあります。もしこれがアレルギーであれば理解してもらいやすく問題ではないのですが、『〇〇〇〇〇が嫌いなのでここで待ってます』というのは受け取られにくいですし、この時のように初対面の仕事相手にはまず言えません。だから自分の中でおりあった結果、葉っぱをよけて歩くということになったんだと思います。」
「世界中から消えないかなって思ったこともあるんですけど、無理なんで、どうにかおりあいつけて生きてますね。生き抜いてるみたいな。」
「〇〇〇〇〇の苦手なようへいくん」
3分59秒
制作協力:片岡祐介
あなたの
おりあい
わたしの
「おりあい」に目を向けてみようと、2018年3月18日に仙台コロナワールドで「おりあいフェスタ」を開催しました。
はじめに、僕たちの周りにはたくさんの「ちがうなぁ」があることを考えました。
「ちがうなぁ」はいろいろなところで起こります。
あの人と自分はちがうなぁ、三毛猫のタマと犬のポチはちがうなぁ、木とコンクリートはちがうなぁ、かつ丼とハンバーグはちがうなぁ、年がちがうなぁ、マークさんとリーさんはちがうなぁ、などいくらでも出てきます。
ちょっと変わったものだと、予定とちがうなぁ、考え方がちがうなぁ、という目に見えないものもあります。
僕たちはそういう「ちがうなぁ」なものに対する時、ちがうという理由でそれらから距離をおくことができます。しかし意外と、それらからはっきりと距離をおいたり、はたまた、きり離すことができなかったりすることがあります。そういうタイプの「ちがうなぁ」と一緒にいる時に「おりあい」は生まれることが多いです。
現在の僕たちの周りに「ちがうなぁ」がたくさんあるように、昔も「ちがうなぁ」がたくさんあったはずです。そして同じように切り離せないことも多かったのも今と同じだったでしょう。そんな中で、切り離さず「おりあい」をつけてきたことで、何か新しいことが起こったりしたんじゃないか、と僕は思います。ちょっと無理やりかもしれませんが、動物の進化も周りの環境に対して生き物がおりあった結果と言えるかもしれません。
僕たち人間も日々なんらかの「ちがうなぁ」と一緒に暮らしています。いつの間にか身に付けた「おりあい」という“わざ”をつかって暮らしています。それは、仕方なくゆずる「だきょう」という消極的なものばかりではなく、「ちがうなぁ」と一緒にいる未来を探る前向きなものも含まれています。
そして、あなたがそうしているように、となりの人も“わざ”をつかっているので、「あれがあの人の『おりあい』なんだね」と見かけることがあります。しかしその一方で、本人は特に意識していないのに、あなたから見たら「おりあい」に見える、というこもあります。
各々がつけている「おりあい」が未来を探っているのだとすれば、自分の周りにある「おりあい」を見つける目線は、世界を豊かにしているのではないかと考えました。。
目に見えなくて、あまりにあたりまえだけれど、「おりあい」はこの世界の豊かさを守ってきた、けっこうすごいものです。そしてそれはだれか特別な人の能力ではなくて、みんなが持っているということが、さらにすごいです。
「おりあいフェスタ」では、僕がみつけた「おりあい」を展示しました。その一部をここにも掲示します。
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一軒一軒が離れて点在する散居村では、木を植えて風よけにしています(富山県砺波市)
ペンキで塗り固められて開けられない木製の窓(富山県富山市)
敷地内に収まっている植栽(静岡県三島市)
一軒一軒が離れて点在する散居村では、木を植えて風よけにしています(富山県砺波市)
私のはただの気弱だけど、みんなはとても上手
田澤さんがみかけたおりあい
ここでは、田澤紘子さんから伺ったお話をご紹介します。
「おりあい」という言葉をテーマにしてプロジェクトをやっているという話に、すぐに「周りにたくさんある!」と反応してくれたのが、東日本大震災で被害にあった場所ではたらく田澤紘子さんでした。人づてにそのことを聞いたのち、ご本人にお会いしました。そこで伺ったお話が、それまではっきりしなかった「なぜ『おりあい』が気になるのか」に気づくきっかけになりました。
※ここでご紹介するお話は田澤さんが聞きとり、読み取ったことを鈴木一郎太が文章にしたものです。話に出てくるご本人たちの考えを代弁しているものではありません。
同じ間取りのえむさん宅の話
新しい場所に移り住むことになったけれど、以前住んでいた時と同じ間取りの家を建てて暮らしているご家族がいらっしゃいます。
この地区のわりと多くのお宅に言えることで、昔って家が大きくて広かったので、そこと比べたら、新しい家は少しスケールダウンしているんですけど、ある時ご自宅を訪問して茶の間に通され、座ると「あっ」ていう感じを受けたんです。
「あれ?」と思ってうしろを振り返ると「あ、庭があるぞ」って。
「あれ、庭石も?」
そのうち足入れていいよと促されて、足を崩したら、
「えっ、掘りごたつも再現されてる!」
ハッと顔を上げると家主のえむさんがニヤニヤして見ている。
その後、高齢ながらもとてもお元気なお母さんの強い希望もあって、そのようにしたとお聞きしました。
当初、元々のお宅に戻るつもりでご家族みんなで片付けに手を付け、再びここで、と整えていたところ、結果的にその後、地域全体が災害危険区域に指定されてしまったのです。
そうとうにお金もかけて直したのに、住めなくなってしまった。
配管から大工仕事までなんでも自分でできてしまう人で、前の自宅は今後解体されてしまうことになるわけだから、新しい暮らしで使えるものはできるだけ使おうといろいろな物、さっきの石も含めて、移動させたということです。こちらの家にはそれらを材料にして作られたところがたくさんあるんです。
いろいろ思うことあったんだろうな、という。
その昔、とある事情のために農地の大部分を手放さなくてはいけないことがあり、仕事も変えなくてはいけなかったご経験もあるそうで、それと相まって、なんで二度も土地を奪われるようなことになってしまうんだという思いもある。
代々つづく思い入れのある土地でもあり、諸々の経緯が背景にあって、えむさんたちにとってここを離れるということは、私が想像しているよりもずっと辛いことなんだろうな、と。
畑とわいさんの話
畑が以前から変わらずあるものというか、居場所というか…そんなことを思わせられた方がいます。
わいさんという農業一筋の方なんですけど。同じ区内に畑と田んぼを持ってらっしゃって、震災の時は、まず畑に行って少し様子を見てから避難したとおっしゃっていました。
わいさんと仲良くなったきっかけって、前にも話したかもしれませんけど、お米だったんです。わいさんが40年以上前から自家採種していたある品種の種籾が失われてしまったんです。
「種籾ほしいんだ」
と、普段独特の雰囲気のわいさんが、ずっとつぶやくように言ってて。調べた結果、とある県の農業試験場から分けてもらえることになったんです。わいさんがあんなに低姿勢になったことないなって思います(笑)
でがぱがになってしまった苗の田植えも先日お手伝いしてました。行くたびに野菜をいっぱいもらったりするんですけど、さきほどのお米も一切お金にかえずにいます。そんな様子を見ていて、土地と自分をギリギリつないでいるのがそのお米だったりするのかなと想像してしまいます。
今、市民センターの講座が大人気なんで、特に平日は高齢の方々がたくさんいるんです。で、だいたい1月、2月って農業もお休みなんですけど、わいさんどうしてるんだろうと思って、
「なにしてるんですか?」って聞いたら、
「え、畑に行って、ねずみと追っかけっこ」とか何気なく言うんです。
「おらいの母ちゃんは市民センターでカラオケやってんだ」
ってのも聞いて、たしかにわいさんはカラオケじゃないよなぁ、と。
畑なんだな、って。